しんとう神道
神道は日本独自の宗教です。「八百万の神(やおよろずのかみ)」という言葉がその概念を象徴しており、自然や概念といったあらゆるものに神性を見出し、それを崇め敬い、主に豊穣や多産や商売繁盛といった現世利益を追求するものです。学術的には精霊信仰(アニミズム)のひとつとして区分けされ、ケルト神話や北欧神話、ネイティブアメリカンの概念などと相似するとされます。神道において最も高位の神は天照大神(あまてらすおおみかみ)とされますが、それもキリスト教やイスラム教のような「絶対的な概念」としての神ではなく、岩戸に引きこもってしまうことで有名な逸話「天岩戸の神隠れ」にも象徴される通り、完全な存在ではありません。霊能の見地から、神道における神々は「神」というより「精霊」や「高位霊」と括った方が適切です。
神道の神々を「絶対的な存在」として見た場合、あまりにも気まぐれで人間的・動物的な面が強く、水を司る龍神や、山の神など、時と場合によっては人に害をなす祟り神となってしまいます。しかし、「精霊」や「高位霊」として見ることで、彼らは彼ら独自のルールを持ち、それは必ずしも人の感覚と一致ものではなく、それゆえ彼らのルールを尊重しながらお供え物を捧げたり祀ったりすることで、彼らと人との間に一部ギブアンドテイクの関係性が構築され、利益を与えてくれる頼もしい存在となります。それはいわば、人と自然との正しい関わり方を見るようでもあります。
神道の流儀で願望成就や問題解決をする際に最も基本となる考え方は、神々とのこうしたギブアンドテイクの締結により加護を得る、ということです。それは術者の霊能力がそのまま反映される仏教や密教の祈願とはまったく異なるものであり、イタコやユタの用いる霊媒術や守護霊交信術に近いものです。もちろん、霊能力の有無は神道系霊術を用いる際にも極めて重要ですが、より強く求められるのは、修業によって研ぎ澄ませた本人自身の直接的な霊能力ではなく、むしろ調和する力、流れを読む力、感情や意思を読み取る力などです。霊視や除霊といった行為が霊的な意味での「筋力」に相当するのに対し、神道の術で求められるのは霊的な意味での「コミュニケーション能力」であると言えるでしょう。
それゆえ、神道系の霊術を用いる霊能者は独特の性格をしています。どの方もどこか俗世離れしてひょうひょうとした雰囲気を身にまとい、泰然自若として、まるで仙人のような雰囲気があります。八百万の神と意識を通わせるためには、自らも自然の一部と化す必要があるのです。